現場発:倉敷チボリ公園跡 風化に抗う“歴史の証し”探す /岡山

◇「問題」余震、形変え今も
 今月、3年ぶりに倉敷通信部勤務となり、さっそく倉敷チボリ公園跡地周辺を歩いた。私が倉敷を離れた07年春以降、同園を巡る状況は激しく動いた。県は公園事業から手を引き、08年末に閉園、倉敷駅ビルも年内に閉鎖される。私は以前からチボリ問題を取材し、何度も同園を訪れたが今回、施設がすべて撤去された更地を初めて見た。チボリ公園の記憶も薄れつつある中、風化に抗(あらが)うものはないか、探した。【小林一彦】
 JR倉敷駅北側に広がる約12ヘクタールの同園跡地は今、白い鉄板で囲まれている。1周約1・5キロ。園のエントランスがあった東端付近に立った。公園周辺の案内板に「倉敷チボリ公園」の文字=写真(1)を見つけた。市内の案内板から消えた名前が残っている。
 今は痕跡のない旧エントランス付近から周囲を見回すと道の向こう側に満開の桜の木が見えた=写真(2)。何度も通った場所だが、以前は桜に気づかなかった。1997年の公園開園に合わせ、駅北口周辺は約80億円かけて整備されたので、その時からあったはずだ。
 白い鉄の壁沿いに左回りに歩くと、北東端に「チボリ動物医療センター」の看板が目に入る=写真(3)。獣医の藤原威信院長(45)は「開業した14年前、公園は建設中だった。なくなると思わなかった」。知り合いに「チボリ先生」と呼ばれ、「チボリの名は公園の記憶が風化するまで使いたい」と話す。
 園跡の北側に、まだ多くの木々が残っている。園の中央をほぼ南北に横切る倉敷市管理の用水周辺の緑が特に濃い。用水周辺以外にも83本の樹木がポツポツと残る。公園跡は、商業施設を中心に災害時の避難場所にもなる市民公園が計画される。市は「残せる木々はなるべく残したい」という。
 園の南側と駅北口を結ぶペデストリアンデッキ、デッキ下のアンデルセン広場、からくり時計の塔、時計塔の四方に立つバイキング像はそのままだ。同園の本家だったデンマークのチボリ公園は、アンデルセンが散策して作品の構想を練ったという。それにちなみ、広場西端に時計塔を見上げるようにアンデルセン像が設置されている=写真(4)。時計塔は今も時報に合わせ、アンデルセン童話の主人公たちが登場する=写真(5)。開園当時を知る人は「時計塔のバックに夜景が広がり、多くのアベックたちがデッキに並んでいた」と懐かしむ。
 広場や時計は倉敷チボリ公園と一体だった。しかし「今後の公園跡地開発でどうなるか分からない」(市幹部)といい、いつまで公園の“生き証人”でいられるか不明だ。
 同園の開園以降、公園の全景が見渡せることをセールスポイントにした倉敷駅ビル内のホテルも今年末に閉鎖されると発表された。「チボリ問題」の余震は、さまざまに形を変えながら今も続いている。

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