支局長からの手紙:初めて踏んだ甲子園 /高知

「セーフ」。走者が走り込み、自信を持ってコールすると、周りのベテラン審判たちから一斉に「アウト!」。盗塁のジャッジの練習で、痛恨のダメ出しです。センバツ開幕を翌日に控え、高知県からの派遣審判員、扇谷浩次さん(49)は自信を失いかけました。

 室戸市出身。中学で野球部に入り、2年秋、背番号「8」をもらいました。しかし最初の試合で、2回連続の失策。すぐに1年生と交代させられましたが、悔しさよりもほっとしました。「選手としての分岐点だった」と言います。

 県立高知東高(1期生)、名古屋商科大では、大半が学生コーチやマネジャー的な役目でした。大学時代に監督から、練習試合の球審に指名されたのが審判との出会いです。卒業後、県内のスーパーに就職。3年後に高校野球の審判を始めます。塁審から始め、ストライクやボールを判定する球審へと進みますが、球審になるのに後輩に抜かれました。「なんでや、なんでや」。選手の時とは違って、ものすごい悔しさを感じました。先輩にみてもらい、助言をノートに取り、技術を向上させます。

 以来20年余、夏の県大会決勝の球審以外は経験しました。そして昨年秋、センバツ派遣の話が携帯電話であり、即座に「行かせてもらいます!」。8都県から一人ずつ派遣されます。扇谷さんは土日に8キロ、平日には4キロと普段より長く走り込み、大好きなお酒も控えて、本番を迎えました。

 冒頭の開幕前日の練習後、落ち込みながらホテルに戻り、屋上で基本動作を再確認しました。盗塁を判定するには、ベース前方に立つ二塁塁審がベースの方に180度向きを替えねばなりません。右足から動き出し、4歩で反転します。投球が捕手のミットに入る前に動き出さねばなりません。練習は在阪の審判員に付き添ってもらい、2時間続けました。

 初の出番は第2日の開星(島根)-向陽(和歌山)戦です。二塁塁審として、少年時代にあこがれた甲子園の土を踏みました。「なるようにしかならない」。開き直りました。一回裏、2死一塁の2球目、走者が盗塁を試みます。「あっ、来た!」。際どいタイミングです。練習通り右足から動き出し、素早く向きを替えると、走者の足が入るのが見えました。「セーーフ」。扇谷さんの自信のコールが甲子園球場に響きました。

 その瞬間、大会前から背中に入っていた鉄板が消えるように、体から力がスーッと抜けて行きました。扇谷さんは1回戦3試合の塁審を無事に務め上げました。担当の2試合目は試合時間が2時間7分でした。2時間を目安に素早い試合運びが求められており、「反省会で時間短縮のために何か工夫できたのではないかという声が出ました。甲子園の審判はプロ。妥協がない世界だと感じました」。

 3日の取材後、扇谷さんは春季県大会で一塁塁審を務めるため、県立春野球場に急ぎました。「審判は長くやっていると、怖さの方が大きい」。おごらず、気負わず。選手だけでなく、ベテラン審判員も成長させる甲子園です。【高知支局長・大澤重人】

 1日付で大阪本社編集制作センターから行方一男次長が、四万十通信部には福山支局から柳沢和寿記者が赴任しました。

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 初めての高知勤務です。第一印象はどの店も店員さんの愛想がよく、もてなしの気持ち良さに癒やされました。前任地では紙面構成や見出しを考える日々に忙殺され、人と接する機会がありませんでした。5年ぶりの現場です。多くの人と出会い、新聞記者の原点でもある足で稼ぐ、熱い記事を届けたいと思います。【行方一男】

 この仕事に就き今月で20年目に入りました。出身は関東で、これまで東北、関西、北陸、中国と各地で取材記者を勤めてきましたが、四国は初めて。予備知識の乏しいままでのスタートとなりますが、さまざまな人々との出会いを大切にし、清流をはじめ自然豊かなこの地で、日々の業務に励みたいと思います。【柳沢和寿】

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