11月29日12時2分配信 毎日新聞
30日に定期運転を終える「0系新幹線」に、人一倍の思いを寄せる人物がいる。日立製作所笠戸事業所(山口県下松市)の下請け会社、山下工業所(同)の山下清登社長(73)。「夢の超特急」として新幹線の歴史を開いた「0系」の先頭車両を試作段階からハンマー一本で打ち出した生みの親の一人だ。「だんご鼻」と呼ばれる特徴ある流線型車両には、新幹線と共に歩んだ、その人生が刻まれている。【安部拓輝】
「時間がない。君に任せる。なんとか試作車を作ってくれ」
東京五輪を3年後に控え、東海道新幹線の開業準備が急ピッチで進んでいた1961年秋、笠戸事業所で列車の板金工だった26歳の山下さんは、思わぬ相談を持ちかけられた。
国鉄から届いた先頭車両のデザイン画を手にして絶句した。飛行機を思わせる流線型。従来の「かまぼこ型」とは訳が違う。
「時速200キロを超える乗り物の板金法なんて誰も知らなかった」。他の4人の板金工はほとんどが10代。プラスチック製の先頭部に続く、なめらかな曲線が打ち出せず、木型に鉄板を何度も合わせ、試行錯誤を繰り返した。効率的に作業ができるよう鉄板を切り分けて打ち出し、後で溶接する方法をとった。打ち出し方にも工夫を重ね、夜遅くまでハンマーを振り続けた。
試作車ができたのは62年。テスト走行を重ねて仕様が決まり、量産が始まったのは山下さんが日立を辞め独立した直後の63年10月ごろ。時間との戦いは続いた。
そうして迎えた64年10月1日の開業日。東京駅のホームでくす玉が割られ、午前6時、新幹線は新大阪に向け静かに走り出した。自宅のテレビで見守った山下さんは、運転席に日立製を意味する「H2」の製造番号を見つけた。「おれが作った車だ」。テレビを指さし歓声を上げた。
より速く、快適に。新幹線が進化を遂げるたびにその腕が試された。「カモノハシ」を思わせる700系まで、手掛けた先頭車両は300両を超える。技術を教え、共に知恵を絞ってきた後輩で社員の国村次郎さん(63)が今月、「現代の名工」として表彰される喜びも味わった。「0系は板金の可能性を広げてくれた。私の人生は新幹線と共にある」
11月、会社に電子メールが届いた。臨時「ひかり」としての運転最終日となる12月14日、新大阪駅で開かれるさよなら式典への招待状だった。山下さんは出席を快諾した。0系に「お疲れ様」と声を掛けるつもりだ。