離島の命綱 給水船改修へ

 呉市水道局は、約20年にわたり離島の斎島へ水道水を運び続けている給水船いつき(17トン)を改修する。水道局によると、広島県内の自治体が所有する唯一の給水船。船体の傷みが目立つためで本格的な改修は初めてとなる。

 いつきは、旧豊浜町時代の1990年に就役。50トンが入るタンクを搭載し、豊島(豊浜町)の南約5キロにある斎島とを結ぶ。斎島には23人(昨年9月末現在)が住んでいる。

 運航は市内の海運会社に委託し、豊島の岸壁給水設備から通常は週1回、8月中旬には週2、3回のペースで運航。年間約60回で1800トン程度を運ぶ。

 改修は、潮風で傷んだ船体の鉄板の張り替えや塗装などで、5月中旬から2~3週間を見込む。事業費は1400万円で、国の地域活性化・きめ細かな臨時交付金を活用する。

 斎島の施設で一定量の貯水が可能なため、改修期間中は給水をしないという。水道局は「飲料水を運ぶ役割は大きい。改修で就役期間を延ばしたい」としている。

現場発:倉敷チボリ公園跡 風化に抗う“歴史の証し”探す /岡山

◇「問題」余震、形変え今も
 今月、3年ぶりに倉敷通信部勤務となり、さっそく倉敷チボリ公園跡地周辺を歩いた。私が倉敷を離れた07年春以降、同園を巡る状況は激しく動いた。県は公園事業から手を引き、08年末に閉園、倉敷駅ビルも年内に閉鎖される。私は以前からチボリ問題を取材し、何度も同園を訪れたが今回、施設がすべて撤去された更地を初めて見た。チボリ公園の記憶も薄れつつある中、風化に抗(あらが)うものはないか、探した。【小林一彦】
 JR倉敷駅北側に広がる約12ヘクタールの同園跡地は今、白い鉄板で囲まれている。1周約1・5キロ。園のエントランスがあった東端付近に立った。公園周辺の案内板に「倉敷チボリ公園」の文字=写真(1)を見つけた。市内の案内板から消えた名前が残っている。
 今は痕跡のない旧エントランス付近から周囲を見回すと道の向こう側に満開の桜の木が見えた=写真(2)。何度も通った場所だが、以前は桜に気づかなかった。1997年の公園開園に合わせ、駅北口周辺は約80億円かけて整備されたので、その時からあったはずだ。
 白い鉄の壁沿いに左回りに歩くと、北東端に「チボリ動物医療センター」の看板が目に入る=写真(3)。獣医の藤原威信院長(45)は「開業した14年前、公園は建設中だった。なくなると思わなかった」。知り合いに「チボリ先生」と呼ばれ、「チボリの名は公園の記憶が風化するまで使いたい」と話す。
 園跡の北側に、まだ多くの木々が残っている。園の中央をほぼ南北に横切る倉敷市管理の用水周辺の緑が特に濃い。用水周辺以外にも83本の樹木がポツポツと残る。公園跡は、商業施設を中心に災害時の避難場所にもなる市民公園が計画される。市は「残せる木々はなるべく残したい」という。
 園の南側と駅北口を結ぶペデストリアンデッキ、デッキ下のアンデルセン広場、からくり時計の塔、時計塔の四方に立つバイキング像はそのままだ。同園の本家だったデンマークのチボリ公園は、アンデルセンが散策して作品の構想を練ったという。それにちなみ、広場西端に時計塔を見上げるようにアンデルセン像が設置されている=写真(4)。時計塔は今も時報に合わせ、アンデルセン童話の主人公たちが登場する=写真(5)。開園当時を知る人は「時計塔のバックに夜景が広がり、多くのアベックたちがデッキに並んでいた」と懐かしむ。
 広場や時計は倉敷チボリ公園と一体だった。しかし「今後の公園跡地開発でどうなるか分からない」(市幹部)といい、いつまで公園の“生き証人”でいられるか不明だ。
 同園の開園以降、公園の全景が見渡せることをセールスポイントにした倉敷駅ビル内のホテルも今年末に閉鎖されると発表された。「チボリ問題」の余震は、さまざまに形を変えながら今も続いている。

支局長からの手紙:初めて踏んだ甲子園 /高知

「セーフ」。走者が走り込み、自信を持ってコールすると、周りのベテラン審判たちから一斉に「アウト!」。盗塁のジャッジの練習で、痛恨のダメ出しです。センバツ開幕を翌日に控え、高知県からの派遣審判員、扇谷浩次さん(49)は自信を失いかけました。

 室戸市出身。中学で野球部に入り、2年秋、背番号「8」をもらいました。しかし最初の試合で、2回連続の失策。すぐに1年生と交代させられましたが、悔しさよりもほっとしました。「選手としての分岐点だった」と言います。

 県立高知東高(1期生)、名古屋商科大では、大半が学生コーチやマネジャー的な役目でした。大学時代に監督から、練習試合の球審に指名されたのが審判との出会いです。卒業後、県内のスーパーに就職。3年後に高校野球の審判を始めます。塁審から始め、ストライクやボールを判定する球審へと進みますが、球審になるのに後輩に抜かれました。「なんでや、なんでや」。選手の時とは違って、ものすごい悔しさを感じました。先輩にみてもらい、助言をノートに取り、技術を向上させます。

 以来20年余、夏の県大会決勝の球審以外は経験しました。そして昨年秋、センバツ派遣の話が携帯電話であり、即座に「行かせてもらいます!」。8都県から一人ずつ派遣されます。扇谷さんは土日に8キロ、平日には4キロと普段より長く走り込み、大好きなお酒も控えて、本番を迎えました。

 冒頭の開幕前日の練習後、落ち込みながらホテルに戻り、屋上で基本動作を再確認しました。盗塁を判定するには、ベース前方に立つ二塁塁審がベースの方に180度向きを替えねばなりません。右足から動き出し、4歩で反転します。投球が捕手のミットに入る前に動き出さねばなりません。練習は在阪の審判員に付き添ってもらい、2時間続けました。

 初の出番は第2日の開星(島根)-向陽(和歌山)戦です。二塁塁審として、少年時代にあこがれた甲子園の土を踏みました。「なるようにしかならない」。開き直りました。一回裏、2死一塁の2球目、走者が盗塁を試みます。「あっ、来た!」。際どいタイミングです。練習通り右足から動き出し、素早く向きを替えると、走者の足が入るのが見えました。「セーーフ」。扇谷さんの自信のコールが甲子園球場に響きました。

 その瞬間、大会前から背中に入っていた鉄板が消えるように、体から力がスーッと抜けて行きました。扇谷さんは1回戦3試合の塁審を無事に務め上げました。担当の2試合目は試合時間が2時間7分でした。2時間を目安に素早い試合運びが求められており、「反省会で時間短縮のために何か工夫できたのではないかという声が出ました。甲子園の審判はプロ。妥協がない世界だと感じました」。

 3日の取材後、扇谷さんは春季県大会で一塁塁審を務めるため、県立春野球場に急ぎました。「審判は長くやっていると、怖さの方が大きい」。おごらず、気負わず。選手だけでなく、ベテラン審判員も成長させる甲子園です。【高知支局長・大澤重人】

 1日付で大阪本社編集制作センターから行方一男次長が、四万十通信部には福山支局から柳沢和寿記者が赴任しました。

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 初めての高知勤務です。第一印象はどの店も店員さんの愛想がよく、もてなしの気持ち良さに癒やされました。前任地では紙面構成や見出しを考える日々に忙殺され、人と接する機会がありませんでした。5年ぶりの現場です。多くの人と出会い、新聞記者の原点でもある足で稼ぐ、熱い記事を届けたいと思います。【行方一男】

 この仕事に就き今月で20年目に入りました。出身は関東で、これまで東北、関西、北陸、中国と各地で取材記者を勤めてきましたが、四国は初めて。予備知識の乏しいままでのスタートとなりますが、さまざまな人々との出会いを大切にし、清流をはじめ自然豊かなこの地で、日々の業務に励みたいと思います。【柳沢和寿】

「米騒動」発端の米蔵、修復終了

1918年の「米騒動」の発端といわれている魚津市本町の米蔵の修復が終わり、2日、報道関係者に公開された。修繕工事によって、米蔵の東側外壁に旧十二銀行(北陸銀行の前身)の行章が新たに発見された。10日には、市民らを対象に現地見学会を行う。

 市教委によると、新たに見つかった印は、1辺が約40センチのひし形で、旧十二銀行で使用されていた行章だった。鉄板に覆われていたため、保存状態は良いという。

 米蔵は、幅40メートル、高さ6・5メートル、奥行き11メートルの瓦ぶき屋根の木造平屋建てで14年建築。現在は水産会社が事務所や倉庫として使用しているが、築90年以上が経過し、老朽化していた。修復は、昨年10月~今年3月末に行われ、傷んだ屋根瓦を外し、床板を取り換えるほか、石積みの壁を解体して基礎から組み直した。市が水産会社に費用約3000万円を助成した。

 市教委は「所有者とともに、米騒動の歴史を残していきたい」と話していた。

 米騒動は、18年7月、米価の高騰に苦しむ漁民の主婦ら数十人が、旧十二銀行所有のこの米蔵前に集まり、米を船に積み込む作業を阻止しようと騒ぎになり、全国に波及した。

 現地見学会は、午前10時、午前10時半、午前11時、午前11時半の4回。米蔵の海側にある解説看板前に集合。問い合わせは同市教委(0765・23・1045)。

(2010年4月3日 読売新聞)

舞鶴発電所の3人死傷事故で、現場責任者2人を在宅起訴

昨年6月、京都府舞鶴市の関西電力舞鶴火力発電所2号機の建設現場で鉄板が倒壊し、福島県いわき市の中野儀二郎さん=当時(61)=ら作業員3人が死傷した事故で、京都地検は31日、業務上過失致死傷の罪で下請け会社の現場責任者2人を在宅起訴した。

 起訴されたのは「光工業」(兵庫県姫路市)の柏葉敏弘被告(52)=姫路市=と、「能代テック」(秋田県能代市)の椛沢学被告(44)=福井県敦賀市。下請けの関電子会社の工事責任者(41)は不起訴とした。

 起訴状によると、両被告は排気ダクトをつくる作業中、縦約10メートル、横約5メートル、重さ約2・8トンの鉄板2枚を垂直に立てる際、転倒防止策を講じず工事を進めたとされる。

 京都府警は1月、3人を書類送検していた。